中山先生がブログで「遺作を描きたい願望が日に日に強くなる」と
書いてた。

これは…あれか…
先生がいつも仰る
「この作品が世に出たら死んでもいい、という作品が読みたい」
か。
この言葉、いつも漫画賞の審査員のときのコメントで言ってる。
いつも言ってる。

だから丈山先生は「解体ザナフ」を書いた。
丈山先生は「この作品が世に出たら死んでもいい」と思って
ザナフを書いた。ブログでそう言ってた。
だから丈山先生はもう遺作が書けてるってことだ。

でも、中山先生自身は、まだ「この作品が世に出たら死んでもいい」
って作品は書けてないのかもしれない。

あと先生がいつも言うのは、「新人賞は一番冒険できるので」
って言葉。
それって、新人賞のあとは、もう冒険できなくなるって意味だよね。

中山先生は、丈山先生との対談で、「半分は自分のために書いてる」って言ってた。
だから、先生は本当は全部自分のために書いた漫画が描きたいのかもしれない。
もう誰の期待にも応えない、夢も希望も救いすらなくていい
誰の理解も要らない、自分だけのための漫画を
描きたいのかもしれない。

私がそう思っただけだけど、
遺作っていうのはそういう意味なのかなって。

それはファンが、読みたいと思うような作品じゃないかもしれないし、
いわゆる「中山敦支」に求められる作品じゃないかもしれない。

でもそれが本当に「死んでもいい」作品だったら
ファンの声がなくても書ける。
自分の命だけで書ける。

先生ただ一人の救いのためにその遺作を書いてほしいと思う。
先生に救いが必要ないなら、先生の絶望のために。

中山先生がいつか遺作を描けますように。

先生、じゃない、中山敦支さんの魂のためにそう願う。